東京大学大学院理学系研究科附属植物園

小石川植物園について

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園内の記念樹と遺構

精子発見のイチョウ

精子発見のイチョウ

植物園のほぼ中央にあるこの大イチョウ(雌株)を研究材料として、明治29(1896)年に、理学部植物学教室の助手であった平瀬作五郎が、種子植物にも精子が存在することを発見しました。これは日本の初期の生物学者による世界的な発見で、生物学史上の偉業とされています。昭和31(1956)年にこの木の下に精子発見60周年記念碑が建立されました。

この木の樹齢は約300歳と推定され、幹回り4.9mの大木となっています。 このイチョウが生育している場所が薬園奉行岡田利左衛門の邸内であったこと、利左衛門が享保3(1718)年から奉行になったことなどから、おそらく利左衛門が植えたものと推定されます。明治元(1868)年6月、御薬園が幕府から東京府に移管される時、園内の樹木は期限内に伐採すると関係者の所有となることとなったため、そのほとんどが切り倒されてしまいました。その時、この大イチョウも鋸で挽かれ始めましたが、太すぎたため、期限内に切ることができず、難を逃れたということです。昭和のはじめ頃にはまだ鋸の切り傷跡が見られ「鋸歯のイチョウ」と呼ばれていましたが、現在では完全に跡が消え、この名も忘れ去られてしまいました。

ニュートンのリンゴ

ニュートンのリンゴ

物理学者ニュートンSir Isaac Newton(1643-1727)が、リンゴが木から落ちるのを見て「万有引力の法則」を発見したという逸話は有名です。ニュートンの生家にあったその木は接ぎ木によって、イギリスだけでなく、アメリカ、ドイツ、スウェーデンなどの科学に関係ある施設に分譲されて育てられています。植物園の木は昭和39(1964)年に英国物理学研究所長サザーランドから日本学士院長柴田雄次に贈られた枝を接ぎ木したものです。この枝はウイルスに感染していたので、植物園で隔離栽培しウイルス治療を受けた後、昭和56(1981)年に園内に植え出されました。その後、本園から日本国内の研究所や植物園、学校などに接ぎ穂が分譲され、「科学の心を育てる記念樹」として親しまれています。

メンデルのブドウ

メンデルのブドウ

遺伝学の基礎を築いたメンデルGregor J. Mendel(1822-1884)が実験に用いた由緒あるブドウの分株で、「メンデルのブドウ」と呼ばれています。これは第2代園長を務めた三好學が、大正2(1913)年チェコのブルノーに、メンデルが在職した修道院を訪ねたとき、旧実験園に残っていたブドウの分譲を依頼して、その翌年に同地から送られてきたものです。この後、メンデル記念館のブドウは消滅したことがわかり、本園のブドウを里帰りさせて、現地にも同じブドウの株を復活させました。

日本庭園

日本庭園

第5代将軍徳川綱吉の幼時の居邸であった白山御殿の庭園に由来するもので、江戸時代末期には蜷川能登守の下屋敷の一部になっていました。造園家の名は不明ですが、自然の地形をたくみに利用しており、おとなしい石組みや地割りのなかにすぐれた技術がうかがわれ、江戸時代の代表的な庭園の一つであるといわれています。その一角には梅園があり、主として観賞用に作出された約50の園芸品種計100株あまりが集められています。また梅林の中央にはハナショウブ園を設け、江戸系80、伊勢系20の計100品種を植えています。

旧東京医学校本館

旧東京医学校本館

日本庭園の一隅に国の重要文化財に指定されている旧東京医学校本館があります。東京大学関係の現存する最古の建物で、明治9(1876)年に建築されたものです。昭和44(1969)年に本郷構内よりこの場所に移されました。現在は総合研究博物館小石川分館として利用されています。

旧養生所の井戸

旧養生所の井戸

小石川養生所は貧困者のための施療所で、町医者小川笙船の意見により、享保7年12月(新暦1723年1月)につくられ、明治維新の時に廃止されるまで続きました。この養生所の井戸は現在も残っており、水質が良く、水量も豊かで、大正12(1923)年の関東大震災の時には避難者の飲料水としておおいに役立ちました。

甘藷試作跡

甘藷試作跡

青木昆陽(通称甘藷先生)は、江戸付近でも甘藷(サツマイモ)の栽培ができるならば、利益も大きく飢饉の時の食料作物としても役立つと考え、享保20(1735)年に幕府に進言し許可を得て、この地で栽培を試みました。この試作は成功し、やがて全国的に甘藷が栽培されるきっかけとなりました。 大正10(1921)年にこの業績をたたえ記念碑が建てられました。

柴田記念館

柴田記念館

理学部植物学教室の教授であった柴田桂太が大正7(1918)年に「フラヴォン族化合物の植物界に於ける分布及其生理学的意義に関する研究」に対して帝国学士院より恩賜賞を受け、大学に寄付した基金により「生理化学研究室」として大正8年に建設された建物です。 柴田もこの建物で研究しました。建物の左側には記念碑が立っています。

乾薬場跡

乾薬場跡

薬園当時、朝廷や幕府に献上する薬草の乾薬場にあった平石(伊豆石)の一部が当時の位置に残されています。 この平石は石畳と呼ばれ、この上に薬草を並べて乾燥させました。乾燥場は約40坪(約132m²)あり、女人禁制で、その周囲は竹矢来で厳重に囲われていたそうです。

大震火災記念石

大震火災記念石

大正12(1923)年の関東大震災では、多くの被災者が植物園に避難し、一部は内務省が園内に設けた22棟の急設救護所に居住する状態となりました。大正14(1925)年1月に全員が退去しましたが、避難の記念として大震火災記念石が残されました。

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